自分が発するあらゆることばは自己肯定でできていると思うんです。書きことばであれ、話ことばであれ、それが前提。
その自己を肯定することばが、他者をも肯定するこることができたら、うれしい。そして、他者を否定しないことばであるといいよね。でも、他者を100%肯定したり、あらゆる人を肯定することはむずかしいだろうなあとも思うんです。人は違うってことが魅力ですしね。
ぼくは「自由をつくる」なんてテーマで、The U(ザ・ユー)ウェブマガジンをつくっているんですが、そのことばも自己肯定です。「自由っていいよね」と思う自分を肯定している。
でも、文豪の芥川龍之介が「自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない」なんて言うように、「自由」っていうのは、あらゆる人にいいものでもない。
こんな実験があります。デパートの試食販売コーナーで「6種類のジャムを販売するブース」と「24種類のジャムを販売するブース」があって、どちらのほうが売り上げがいいかという実験です。どちらのほうがいいと思いますか?
実験の結果は、「6種類のブース」のほうが、「24種類のブース」の7倍の売り上げがありました。※1
「自由っていいよね」なんて思っていても、人間の脳の同時に処理できる情報量には限界があります。許容量を超えてしまうと、選ぶことをやめてしまうのです。どうやら、無限の自由があっても、いいことがないかもしれません。
今日も読んでくれてありがとうございます。
自分は自分を肯定したい生き物なんだと思います。でも、自分が正しいとは限りません。
※1.Lepper MR. When choice is demotivating : can one desire too much of a good thing ? J Pres Soc Psychol 79:995, 2000. 『自分では気づかない、ココロの盲点』池谷裕二