ヒヨコは「高いところはこわい」と生まれたときから脳回路にインストールされている。いっぽうで、生まれたばかりの人間に「高いところはこわい」という本能がない。それは穴に落ちても他の人が助けてくれるから。人間は誰かに助けてもらうことを前提にして生まれてくる。「人間は失敗できる動物。」っということを昨日書いた。
書いてみて思ったんです。失敗して助けてくれる人がいるか、いないかというのが、なにかに一歩踏み出すことへの重要な要素になりそうだぞって。
親という存在は、なによりも失敗したときに助けてくれる存在だ。赤ちゃんが穴に落ちたら、親はまっ先に助ける。
「オレオレ」と息子のふりをして電話をかけ、「急に事故を起こして、お金が必要になった」などとお金を騙し取ろうとする詐欺の手口「オレオレ詐欺」。平成29年の「オレオレ詐欺」の被害額は207.9億円 ※1。よくもわるくもこの数字は、親が失敗したときに助けてくれる存在というなによりもの証拠だ。
つまり、親が生きているか、まだ助けられる状態(健康・金銭・地理など)にあるか、仲がいいかということが、チャレンジ(失敗)できる大事な項目になる。じゃあ、親が生きていない、助けてくれる状況にない、仲がわるい場合、どうしたらいいのだろうか。
親ではない助けてくれる存在が必要になってくる。それは、恋人かもしれない。仕事仲間かもしれない。友だちかもしれない。兄弟姉妹かもしれない。パートナーや子どもかもしれない。ファンかもしれない。
そんな存在が思いつかない場合、「失敗したときに助けてくれる人をつくる」か、「失敗したときに助けてもらわなくても生きていける自分をつくる」かの選択にせまられる。誰にも助けてもらわずに生きていける完璧な人なんていない。いたとしても、ほんの少し。なので、「失敗したときに助けてくれる人をつくる」について考える。
アートディレクターの千原徹也が主宰する「れもんらいふデザイン塾」で、ゲストの遠山正道さんと「どんな人が、人を巻き込めるか?」について話をしていた。「チャーミングな人かなあ」と遠山さんが答えた。
ぼくは、ごまが必要なないとき、ごまをすれない。太鼓を叩きたくもないときは、太鼓も叩けない。振れるような尻尾も持ち合わせていない。「なるほど、ぼくは愛嬌がないんですよ」と困りながら言った。
「一生懸命やってたら、人は見てるよ」横にいた千原さんがすっと言った。遠山さんも、その言葉に頷いていた。
このときは、「どんな人が、人を巻き込めるか?」について話してたけど、これって「どんな人が、失敗したときに助けてもらえるか?」にも転換できるんじゃないかと思っている。
つまり、「一生懸命やってたら、助けてもらえる」。「おいおい、令和の時代にそんな結論かよ?」と思うかもしれない。一生懸命やってたからって、必ず助けてもらえるわけでもない。でも、それは助けてもらうことの前提なんだと思う。子どもががんばっていなかったら、親でさえ助けたいと思わないだろう。がんばってる人はチャーミングだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。
「男は度胸、女は愛嬌」なんてことわざがあるけど、男も女も関係ない時代、「度胸」も「愛嬌」もぐんぐん高めたいね。
※1平成29年の特殊詐欺認知・検挙状況等について(確定値版) 警視庁