ぼくが小学生だった頃、20年前は絵の具やクレヨン、鉛筆に「はだ色」という色がありました。今は、「肌の色ってひとつじゃないでしょ」っということで「はだ色」の名前は「うすだいたい色」にかわっているそうです。
思い返せば、小学生のぼくはなにも考えずに「はだ色」を人間の肌を塗るときに使っていた。色黒の父親の肌も、色白の母親の肌も、同じ「はだ色」を使っていたと思う。小学生の頃、廊下に飾られていたみんなの絵。描かれた多くの人の肌は「はだ色」で塗られていた。
アフリカやアメリカ、いろんな国を旅した今になって気がつく。肌の色って友だちみんな違っていたことを。クラスで一番足の速かった「よしなり」や、頭のいい「池ちゃん」はこんがり焼けた肌をしていた。同じ苗字の「じゅん」は色が白かった。
日本とアフリカで「シマウマって白地に黒シマ模様?それとも黒地に白シマ模様?」って聞くと、日本人は「白地に黒シマ模様」、肌の黒いアフリカの人は「黒地に白シマ模様」と答えるようです。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」なんてアインシュタインのことばがあるけど、ぼくたちはすこしずつ偏見を蓄えて生きている。しかも、知らず知らずのうちに。
今朝Twitterで流れていた、写真家で元狩猟家で血液がん患者の「幡野広志」さんのツイート。幡野さんは、ぼくがことばにできていなかったことをさらっとつぶやかれていた。そして、実践されている。
白い菊の花の花言葉は“真実”だ。
前々から知ってるような感じでいったけど、いまググって知ったことだ。菊は皇室の紋にもつかわれている。
なんで縁起がわるい花のような扱いなんだろう。息子は菊の形状が好きで、えらんだ。
よくわからない常識よりも、息子の感性と選んだことを大切にしたい。— 幡野 広志 (@hatanohiroshi) 2019年5月14日
偏見のコレクションよりも大事なものってあるよね。
今日も読んでくれてありがとうございます。
19歳以降は偏見のコレクションを脱ぎ捨てていくことが必要なんだと思う。