本の中の言葉は熱や力をくれる。その熱を行動に移さず、とりあえず最後まで本を読み進めてしまおうとしている自分に気がついた。誰にお願いされているわけでもないのに。
ほんとうは本を最後まで読むことよりも、本をとじてその本からもらったなにかを、行動に移すことのほうが大事だ。
そんな風に気がついたのは、『アホになる修行』という本を読んでいたときのこと。
『アホになる修行』には、「願わくばもっとアホになる必要がある」という美術家の横尾忠則さんの言葉が綴られている。1ページに一言と、とっても読みやすい本だ。
たとえば、絵に関する、こんな言葉がある。
「目的も評価も頭から一掃して、つべこべ言わずに描きたいものを描けばいいのです。」
「絵を描きながら、おかしな方向に向かうことがある。そんな時は絵が成功する時だ。ハンドルが切れなくなっている。それでも走る。あとは事故しかない。その事故に向かっている不安と危険。あわやの時、急にコントロールがとれる。作品ってそうしてできる。」
「絵を描こうとしてもなかなか腰が上がらない。どこかで不安があるのかも知れない。思い通りの絵が描けないんじゃないかという。ところで、思い通りって一体何だろう。そんなもの最初からあるはずがない。やってみて初めて思い通りになるんじゃないのか。」
そんな言葉たちに触れることで、ズクズクと内臓から絵を描きたい気持ちがわいてきていた。にも関わらず、本を読み進めていた。「本を読みはじめたら、読み終えるものだ」という、いらぬマジメさが出てしまっていた。アホになる修行が足りていないのだろう。
本を読み終えること自体には、価値はない。そんなことを言っては著者に失礼かもしれません。でもね、本を読んで新しい感情がわいたり、自分に変化が起こること、もっと言えば行動につながることが価値なんじゃないかと思うんです。
自分がいつか本を出すことができるなら、まえがきで「この本の中の言葉で、あなたを行動に導く何かを発見したら、本を捨てて構いません。本を最後まで読むより、あなたの行動のほうが大事です」なんてことを書こうと思う。
「本を読みはじめたら、最後まで読むものだ」。いつからこんな考え方が頭にあったのだろう。それに近いのが、「学校に入ったら、卒業するものだ」だ。学校にいることよりも、大事なものを発見できたら、やめてもいい。今のぼくは、無責任にそう思う。
今日も読んでくれてありがとうございます。
こころの熱は砂漠でも冷めやすいものだから。